ランの死んだ次の日。東京出張だ。心と別に富士が輝いていた。 |
幼少のころ随分母親を困らせたことを思い浮か
べる。
出来ないことを親父がいないことと結び付け(父親を早くに亡くした)、随分我儘を言ったと思う。
我儘をかなえるため母親が一生懸命父親の代わりをしていたのだと今更遅いが軽薄な自分を悔やむ。
冬の朝の富士は空気が澄んで気持ちいい。 |
私は三人娘に恵まれた。親としてできる限りのしてきたつもりだ。
がそれが良かったのだろうかと今思ったりすることもある。
当たり前の世界の外に、実はもっと教えておかなければならないことがあったのではと思うのだ。
その娘に長女が生まれた。初孫である。
娘はいま母親に感謝の気持ちをもって子育ての相談しているようだ。
あんな我儘な子がと思いながら嬉しく思う。
そんな時期、大切に育てた愛犬ランが死んだ。
妻のランへの可愛がりようは尋常ではなかった。
この空白をどうして埋めるのかと心配しているが、きっとその解決方法はもう出ているはずだ。
私は心の隙間は埋めきれていないが、当面仕事の忙しさにかまけるしかないのか。
今日も富士が輝いている。
人生、こうやって“つじつま”を合わせて生きているのだろう。
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