途中猪名川に「鯉のぼりの川流し(川渡し)」の光景があった、各地で見られるようだが川にたくさんの鯉のぼりが渡される季節行事らしい。春たけなわである。
猪名川で”鯉の流し”風景、春爛漫。 |
上流では流れていた水が河口近くでは動かない。止まっているのだ。そのため色が変色し澱んでいる。
政治も経済も国家も企業も“澱む”という例えはこういう状態なのだと思う。
どんどん河口に近づいて行くにつれ、魚が水面から跳ね上がっている。
一匹ではない。沢山の魚が音楽を奏でるようにパシャ・パシャ・パシャって。
水が流れていないので水中の酸素がうんと少ないのだろう。
こういう環境で育っている魚は生命力が強いのかもしれない。そして何代か続くうちその環境で生きていく遺伝子が変異していくのかもしれない。生命の遺伝子はそういうものだろう。
太古から人が生まれ魚が生まれ鳥が生まれたのはまさにそういう環境適応性なのかと変なところで感じ入った。
河口の環境で、“かもや白鷺”も泳いでいる。強い生命力だと思った。
生命が生きていく“限界”というものが仮にあるとすれば、“自分がここまでだ”と思ったらそこで止まる。ここまでなんだろう。生命はそこで“変異”という奥の手を使って環境順応性を図ってゆくのではないかと思う。
地球上の生命が“人類・鳥・魚・動物”いろいろな形で分化して生き延びているのはそういうことだ。
東北も苦労している。この苦労は人類全てが負う試練である。決して他人事ではないことを皆が共有しているはずだ。同時に共有が大きな財産になってゆくと信じてやまない。
0 件のコメント:
コメントを投稿